あうとわ~ど・ばうんど

He Loved Him Madly

ゲット・アップ・ウィズ・イット
昨日からずっと聴いている。CDの1枚目(①−④)をエンドレスで延々と。
今日は①「He Loved Him Madly」について、ちょっとだけ考えていることを書く。この曲、デューク・エリントンに捧げられた演奏なのだが、その事実を人はなぜ、もっと驚きをもって迎えないのか。なぜなら、マイルスにはこの他に追悼曲というものが存在しない。チャーリー・パーカーに対し、コルトレーンに対し、マイルスの幼い頃からのアイドルであったルイ・アームストロングに対しても、追悼演奏を残してはいない。「Siesta」はギル・エヴァンスに捧げられているものの、リリース直前に他界したギルに急遽捧げられただけで、ギルを念頭に作られたアルバムではない(それに、マーカス・ミラーが実質リーダーだ)。
マイルスはエリントンと共演することはなかったし、彼のレパートリーにエリントンナンバーはほとんどない(50年代に『Just Squeeze Me』や『Perdido』を吹き込んでいるぐらいか。もっとも、エリントンの曲はあまりⅡⅤ連結しないので、バップには不向きだった事情もあるだろうが)。
マイルスとエリントンの接点は、すごく薄い。「クールの誕生」の基となった1948年の演奏(「The Complete Birth of the Cool」所収)を聴いたエリントンが、マイルスをスカウトした。マイルスは有頂天になった。

だが、「クールの誕生」に取りかかっているから参加できないと言わなきゃならなかった。デュークにもそう答えたし、それは本当のことだった。だが、デュークに言えなかった本当の理由もある。それは、毎晩同じ音楽を繰り返し繰り返し演奏する、オルゴールみたいな生活が嫌だということだ。 (中略) あの日からデュークが死ぬまで、二人っきりで話すことはなかった
  (「マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)宝島社文庫、191-192頁)

何度も共演したパーカーやコルトレーンの追悼曲を残さなかったマイルスが、これだけの付き合いのエリントンに曲を残したのである。それは、74年5月という時期にキーワードがあるのではないか。

南米ツアーに出たマイルスの体調は悪くなる一方だった (中略) サンパウロでのコンサートの直後、心臓発作がマイルスを襲った。病院に運び込まれたが、すぐに自分から病院を退院してしまった。自らの健康状態に加え、1974年5月24日、デューク・エリントンが亡くなったという知らせに、マイルスの心は深い悲しみに包まれた。その前の12月、エリントンから届いたクリスマスカード(“ラヴ・ユー・マッドリー”とサインしてあった)は、デュークからの別れの挨拶だったのだとマイルスは思った。
 ニューヨークに戻るとすぐマイルスは6月のセッションのスケジュールを立て、デューク・エリントンへの追悼曲「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」をレコーディングした
  (「マイルス・デイヴィスの生涯シンコーミュージックエンタテイメント、371頁)

30年間走り続けてきたマイルスの体と精神はボロボロだった(自業自得という説もありますが。笑)。そんな最も弱りきった状態が、マイルスに追悼曲を演奏させたのかもしれない(なにしろ本来は、葬儀に行かず、共演したミュージシャンの霊と音楽は常に自分の中に生きているという思想の持ち主なのだから)。
だが、そこはマイルス。強い自己主張を忘れない。タイトルに注目しよう。『お前を愛しているよ、狂おしいほど』というデュークのメッセージに、マイルスは『そうじゃない。あなたは、あなた自身を愛したんだ、狂うほどに』と答えた。そして、それはマイルス自身のことでもあると解釈できないだろうか。デュークとマイルス、ともに、巨大な才能を持ち、狂うほど自分を愛した男。デュークのことは、自分が一番理解しているのだ、と。


というのは、ぼくの勝手な想像であるが(笑)


最後に。マイルスはデューク追悼のため、エリントンナンバーを演奏したのでも、エリントンふうの曲を演奏したのでもない。ただただエリントンのことを思い、自分の曲を演奏した。マイルスの死後、おびただしい数のトリビュートアルバムがリリースされたが、そのような姿勢でマイルスを追悼した演奏は皆無だ(ぼくが知らないだけかもしれないけど)。マイルスの死を、マイルスの曲で追悼するというのは、実は非マイルス的態度ではないのか。と思うのだ。




ちょっとのつもりが、ずいぶん長く書いてしまったな〜(笑)