あうとわ~ど・ばうんど

ドルフィーとカフカの迷宮性について

突然ですが、6月20日の続き。


カフカの小説は、俗に『迷宮的』と称される。もちろん、そういった型枠に単純には当てはめられないが、カフカの一面を理解しやすく捉えた恰好の形容詞ではあると思う。
だとするならば、カフカの三部作と呼ばれる長編が未完であるのも、なんとなくうなずける気がする。どれも主人公が『迷宮』に迷い込む話であって、終わらせるためにはごく大雑把に言って、『迷宮』から出るか、主人公が死ぬしかない。さ迷い続けるならますます終わらないだろうし、結局放棄するしか終わらせ方がなかったわけだ。


それを強引に、ドルフィーに当てはめる(笑)
ドルフィーのアドリブは、いつも唐突に終わる(感が強い。ぼくにとっては)。カタルシスに向けてフレーズを紡いでいく、というようなストーリー性はほとんど感じられず、『迷宮』の中で手探りしたりあちこち動き回ったり時には叫び声を上げたりしながら、先行きの不安さにドルフィー自身が戸惑っているようにすら聞こえる。ドルフィーにおける最後の一音とは、その音によって演奏を断念せざるを得なかった悲しい決意表明のようにも響く。そうして、彼は音楽を『完成』させることなく、この世を去った。
2人の芸術はさまざまな解釈を誘発し、どんな意味をも受け入れる。しかし、それで説明し尽くせるということはない。さらなる謎を、ますます巨大な闇を引き寄せるだけである。だが、芸術もまた人間の営みである以上、それが当然の帰結なのではないか。そもそも人間の生そのものが完結した作品でも、ましてや美しい物語でもありえず、意味も解釈も剥奪されているのだから。



うーむ。思いつきで書いてはみたが、意味不明(苦笑)