あうとわ~ど・ばうんど

Kaol Abe Studio Session

今からちょうど30年前の演奏ということになる。「Kaol Abe Studio Session 1976.3.12.」。全6曲77分。阿部薫(p,hermonica,as)。
阿部薫は好きなのだが、それでもCDを聴くのは、年に数回だ。熱心なファンであれば日常的に聴いて癒されているのであろうが、凡庸な感性の自分には、日常的に接するのはちょっと重い。ま、その重さが阿部薫を聴く楽しみの一つではあるのだが。

(以下は寄り道。かなり話が逸れるので、興味のない方は一番下へお進みください)

阿部薫の演奏を(というか、フリージャズやフリーインプロヴィゼーションを)、「ただのデタラメじゃないか」と非難する心ない一群が必ずいるが、本当に「ただのデタラメ」だったら物凄く素晴らしいことだと思う。意識しなくても自然に出てきてしまうのがテクニックやフィーリングというもので、それらから自由になるのはとっても難しいのだから。
少なからずジャズファンは既成の方法論、テクニック、スタイル、フィーリングに則らなければジャズではないと思っているフシがある(マニアと呼ばれる人に特に多いような気もする)。だが、そういう演奏は既成のジャズ的な気分をなぞっているだけで、自分にはそれだけがジャズの面白さだとは必ずしも思えない。
自分の考えるジャズの面白さの一つに「逸脱」がある。歴史を紐解けばジャズは常に何かから逸脱し続けてきたはずで、だからこそかつての名演奏たちは、逸脱する「運動」が捉えられているがゆえに今聴いてもアクチュアルなのだし(だからそのままなぞっても、それは型の「模倣」であって、「逸脱」とはなりえない。ま、徹底的に模倣して、逆に突き抜けてしまうという可能性もないではないが)、ジャズ自体、逸脱したカッコよさに惹かれて「発展」してきたのだとも言える。そして、逸脱し続けてもなお残るものが、ジャズの核ではないだろうか。
ご苦労様でした。本題に(無理矢理)戻します。

アベマニアは、「解体的交感」「Winter 1972」「彗星パルティータ」といった爆発的なパワーが充溢する初期に軍配をあげるだろうが、無類の美しさを湛える後期(とはいえ、20代後半)も素晴らしい。⑥のアルトサックスインプロヴィゼーションに虚心に耳を傾ける。45分後、自分は叫びたいような泣きたいような笑いたいような何かに感謝したいような不思議な気分に駆られる。