あうとわ~ど・ばうんど

音楽と文学の対位法

音楽と文学の対位法
最近「音楽と文学の対位法青柳いづみこ」(みすず書房)を読んだ。著者はクラシックの(?)ピアニスト兼文筆家。作曲家と作家を対置し、それぞれが交錯する状況を語りつつ、一つの文化論をあぶり出すエッセイ集(という理解でよいのかな?)。
クラシックの話でありながら、ジャズにも読み換えられそうなくだりが多い。例えば、

もちろん、そうやって苦しみながら楽譜に記してくれたからこそ、私たちはこんにちショパンピアノ曲を演奏することができるのだ。しかし、それでもなお、ショパンが彼自身の指先を通して想念が流れでるままに実現したそのときが、ショパン音楽の真実の姿が時空にたちのぼった瞬間ではなかったか。
  (中略)
  ショパンの即興演奏は、そのまま彼のポエジーの発露だった。それは、楽譜という記号に書きつけることによってもそこなわれてしまうような、瞬間的だからこそ唯一無二であるような、生の形のポエジーだったのだ。(『第3章 ショパンとハイネ』125、128頁)

あるいは、こんな一節。

学生時代に即興演奏していたころ、「君は不協和音が解決なんかしなくていい、と主張するんだな? それならいったい、君のモノサシはなんだね?」と憤慨した同級生に詰問されたドビュッシーは、「私の喜びです!」と答えている。
  「どんな喜びが不協和音から見つけ出せるというんだな?」
 「今日の不協和音は、明日の協和音ですよ!」(『第6章 ランボーの手、ドビュッシーの手』261頁)

この日記ではジャズに引き付けて紹介しているが、そこから離れても、本自体とっても面白い。ジャズサイドでも、誰かこういう本書いてくれないかな。