あうとわ~ど・ばうんど

Play

どうでもいいですが、本日は100日目の日記。



実はジャズ・ヴォーカルものが、よく分からない。が、このアルバムは大好きでよく聴く。「Play/Bobby McFerrin & Chick Corea」(92年、全6曲50分)。もっとも、マクファーリンの歌は、歌唱というより、声による器楽演奏の側面が強いが。
これもハマりまくったなあ。しかし、こんなにいろんなアルバムにハマってばかりじゃ、そりゃサックス吹いてる時間はなかったよなあ(笑)。
マクファーリンとチックのデュオライヴ。①「Spain」④「Blues Connotation」⑥「Blue Bossa」など、どの曲も最高だが、何と言っても③「Autumn Leaves」にトドメを刺す。この曲を聴くと、マクファーリンの芸人魂に、いつも感服してしまう。リリース当時『歌は最高だが、歌詞がふざけているので減点』みたいなレビューがあったように記憶しているが、マクファーリンはふざけているわけでなく、真剣誠実に観客を楽しませようとしているだけだと思う。
(以下は寄り道。大して中身は無いので、退屈で長い文章を読みたくない人は一番下にお進みください)

世の中には、ジャズはアートでなければならないと信じ切って疑わない人が(日本人には特に)少なからずいて、真面目でないから駄目、みたいな批判をする人がいる。もちろんアート的側面はある。だが、意外に思われるかもしれないが自分は、ジャズはアートである以前に娯楽であると思っている。ジャズの歴史を紐解けば分かることで、モダン以前、スイングまでの初期ジャズは大衆芸能として発展した(はず)。ビバップ誕生によって、ジャズは初めて本格的にアート性を獲得するわけだが(当時はバリバリのアングラ音楽で、ビバッパーたちが何をやっているか分からなかった人が多いんじゃないだろうか。もっとも、今でもそうかもしれないが)、その後、ハードバップあるいはファンキージャズなどによってアート性から娯楽性に少し揺り戻され、モード・フリーでまたアート性の方向に針が動き、フュージョンで娯楽性に振られ、80年代新伝承派がアート性に戻したり…と、変化してきたのだと思う(ごく大雑把に図式的に説明すれば。話はそんなに単純じゃないとは思いますが。ちなみに、さらに話が逸れるが、モダンジャズのスタイルの変遷は、ジャズの発展史ではなく、技法の流行史として捉えるほうが正確ではないか、という気がする。新しく生み出されたものが流行したり、過去のものが流行したりする。流行に関係なく一生同じ服を着る人もいるし、マイルスのように時代によって(文字通り)着る服が変化する人もいる。技法は確かに発展したが、それはクラシックが数百年かけたものを、ジャズが数十年で獲得したことで、発展史観が可能のように見えるだけだと思う)。ジャズのアート性と娯楽性は対立するものでなく、両立するものだ。時代や演奏者によって、アート成分と娯楽成分のどちらが多いかで特性が分かれるだけなのだ。と思います。
ご苦労様でした。本題に戻ります。

それよりも、そもそも卓越した技量を持つマクファーリンの、徹底した娯楽性の追求が、信じられないようなアート性を引き寄せたことに驚嘆すべきだと思う。ちなみにマクファーリンがあまりに凄すぎて、チックのピアノも素晴らしいのだけど、自分には添え物にしか聴こえない(笑)