あうとわ~ど・ばうんど

ドルフィー生誕80周年

本日は、エリック・ドルフィーの生誕80周年記念日(なお、29日は没後44年にあたる)。

だというのに、マイルスやコルトレーンの時のような記念盤や追悼盤あるいは発掘盤の情報は、全くないようだ。なんとも寂しいことである。
ところで。かなり以前に、ドルフィー渡辺貞夫がセッションしたことがある、という話をチラリと書いたことがあるのだが、最近、渡辺がドルフィーについて語っているこんな文章を見つけた。ちょっと長いけれど、とっても興味深いので引用してみよう。

「ぼくがアメリカに着いたのは1962年8月15日でしたが、その日の晩、秋吉さん(註・トシコのこと)に連れられて、ニューヨークのファイヴ・スポットに行きました。その頃、秋吉さんはチャールス・ミンガスのグループで演奏していたのです。そのファイヴ・スポットに、ちょうどエリック・ドルフィーが遊びにきていて、ぼくはエリックと一緒にバンド・スタンドにあがり、モンクの有名な曲「ウェル・ユー・ニードゥント」を演奏したわけです。
 日本にいた頃は、レコードを聴いて変ったスタイルのアルト奏者がいるなという程度にしか知っていなかったのですが、一緒にやってみて非常に驚きました。とにかく“ものすごい”という感じでした。その時はデカイ音で吹きまくるという印象だけのようでしたが、次の晩またファイヴ・スポットで紹介され、ミンガスに呼び出されたりして、再び一緒に演奏しました。また、レオ・ライトやチャーリー・マクファーソンとも一緒に吹いたりしたのですが、何せアメリカに着いたばかりで、演奏に夢中になってひどく興奮していたことしか思い出せません。エリック・ドルフィーもレオ・ライトも人間は最高に良い人でした。ぼくがこれからボストンのバークリー音楽院で勉強するんだとエリックに話したら、エリックはおれも学校にいって勉強したいと語っていました。
 本当にじっくりとエリックの演奏を聴いたのは、それから一年ぐらいたってからです。彼はボストンのコノリーズというクラブに自分のグループを率いて一週間出演していました。そこでこのクラブにたびたび足を運び、時には一緒に演奏させてもらったわけです。その頃、まわりでは彼の演奏をでたらめだという人もいたようでした。ぼくにはその頃エリックのやっていることが少しわかってきたし、でたらめだとは思えませんでした。たとえでたらめだという人がいたとしても、あれだけの強烈な個性とヴァイタリティには、まさに文句のつけようがないんじゃないでしょうか。純真な感じで、作るとかいつわりがないのです。実に直截に訴えかけてきます。
 同じ頃、ジュゼッピ・ローガンがニューイングランド音楽院で勉強していました。ときどきぼくの部屋にもやってきて、よく一緒に吹いたものですが、現在のジュゼッピはどうか知りませんが、その頃の彼は指使いは早かったけれども、何も感じさせるものはなかったようです。それこそでたらめと感じたものです。また話をエリックにもどしますが、ぼくは彼のバラード演奏は正直いってあまり好きではありませんでした。エリックはぼくにぜひ日本に行きたいものだと語っていました。それが不可能になって本当に残念だと思います。とにかくアメリカに着いた晩のエリックとやった一曲の演奏は、一生忘れられないでしょう。エリック・ドルフィーはすばらしいミュージシャンでした」
立花実著『ジャズへの愛着』青空文庫版(http://gaku2003.hp.infoseek.co.jp/AOZORA/JAZZ.txt

渡辺貞夫アメリカで最初にセッションした相手がドルフィーだったとは! 特に、その晩と次の晩の曲には、秋吉敏子も加わっている可能性がある!

たぶん不可能だとは思うけれど、これらの演奏、いつか発掘されてくれないものか(「Eric Dolphy Discography」には載っていない)。