あうとわ~ど・ばうんど

「アサッテ」を読み替える

本日はコルトレーンの命日だが、さしあたってそれは関係ない。
先日、諏訪哲史アサッテの人 (講談社文庫)」を買って、読んだ。三十路に入ってから所謂“純文学”をリアルタイムで読まなくなっているが、この小説は群像新人賞芥川賞をW受賞して話題になった時に単行本をさらりと立ち読みして興味ひかれはしたものの、結局は、文庫化されるまで待っていた。
小説は、本当に、非常に面白かったのだけれど、ここにその感想は書かない。というか、私はそもそもそういう能力を持っていない。かわりに、とても印象に残った個所を引用する。

アサッテはまるでその場の空間を歪ませるような異和を、文脈の中に投げ入れる。それは笑いや、怒りや、悲しみや、それら喜怒哀楽という定式化された人間の感情を裏切り、戸惑わせる。そしてそのとき発話者である彼自身は、いわゆる場の踏み外しによって「アサッテ」の彼方へかき消えてしまっている。つまり、彼の標榜する身の翻しとは、その場を支配する予定調和的な文脈をふまえつつ、そこから完全に無関係な位置へ突き抜けることであった。(中略)彼は俳句に関して、放哉や山頭火らのいわゆる自由律俳句よりむしろ、定型の韻をわずかに歪ませる、字余り・字足らずの違和感を好んだ。律のないところでいくら逸脱しても、それは逸脱ではない。飽くまで五七五を目指しながらついにそれを果たさないところにこそ逸脱の本懐がある。(138−139頁)

この部分を読んでいた私は思わず、「アサッテ」を「Out There」と読み替えていたのである。