あうとわ~ど・ばうんど

The Shape of Ornette Coleman

もはや世界中で、オーネット・コールマンへの追悼の言葉が書かれ尽くされているだろう。私も何かを書かねばならないような気がしたが、すぐに、何か気の利いたことを書けるわけでもなく、しばらく彼のアルバムを聴いて過ごした。そうして、何枚目かに「ジャズ来るべきもの」を聴いていたら突然、“語るべきもの”(もしかすると“騙るべきもの”かもしれない)を得たような気がしたので、書いてみることにする。題は、こうだ。


オーネットの「ジャズ」は何からのフリーだったのか?


Ornette Coleman(as) Don Cherry(cor) Charlie Haden(b) Billy Higgins(ds)


仰々しいアルバムタイトル(たぶんオーネットの意向ではないと思う)だが、作品名を体現しているのは、冒頭曲の「Lonely Woman」のみであろう。この曲は、時にフリージャズの代名詞のように扱われ、のみならず、フリージャズを問わず、多くのミュージシャンたちによってカバーもされ、オーネットのオリジナルの中でも特権的地位を与えられている。が、おそらく、オーネットの演奏はそのどれにも似ていないはずだ。


オーネットの「フリージャズ」が、巷間言われているように和声からのフリーでなく、黒人音楽およびそこから派生したポピュラー音楽の最大の特徴といっていいプレーンな基礎リズムが存在していないことこそ重要だ、と指摘したのは菊地成孔さんだったが(「東京大学のアルバート・アイラー : 東大ジャズ講義録・歴史編」121、122頁)、私もその分析に同意する。とくに「ロンリー・ウーマン」における、ひと吹きごとにスピード感が変わる感覚は、いつ聴いてもスリリングだ。


オーネットが結果的に生み出してしまった、のちのフリージャズ、特に黒人たちによる凡百の「フリージャズ」と根本的に違うのは、ここだ。彼らのフリージャズは「ブラックジャズ」としてのアイデンティティーを捨て去ることはできず、いわゆる「黒人的」リズム感を放棄できなかった。しかし、オーネットは、「フリージャズ」が花開く前から、既に自由であった。つまり、オーネットの「ジャズ」におけるフリーで最も重要なのは、リズム感からのフリーであった。ということが言いたいのではない。


ここで恥ずかしながら告白すると、私はいわゆる「黒い」ジャズが、あまり好きでない(おそらく、私のブログを長く読んでくれている人は察しがつくと思う)。オーネットの音楽は黒くも白くもない。いわば「コスモポリタン」的だ。それは、ここでの彼の相棒であるドン・チェリーが、のちに汎世界的音楽に向かっていったことにも通じる(ジャズジャーナリスティックな位置づけは違ってしまったけれど、この2人の音楽はやはり表裏一体なのだと思う)。


というわけで、唐突だが結論。オーネットの「ジャズ」におけるフリーとは、実はジャズそのものからのフリーだったのだ、たぶん。




とはいえ、やはりオーネット・コールマンの音楽は語るより、聴く方が楽しい。エリック・ドルフィーとはまた違った音楽の快楽を与え続けてくれたことに感謝。9年前の来日公演(渋谷オーチャードホール)も、観ることができて、ほんとうに良かった。



下記コメント欄を受け、増補改訂版を新たに書いてみた(6/17追記)
http://outwardbound.hatenablog.com/entry/2015/06/16/225009