あうとわ~ど・ばうんど

エリック・ドルフィー生誕87年

明けて6月20日は、エリック・ドルフィー87回目の誕生日である(オーネット・コールマンの2歳年長であった。なお、ドルフィーより1歳上のリー・コニッツがまだ健在である)。


ドルフィーによる公式な演奏記録が残っているのは、30歳の年からの6年間にすぎないためか、彼が誕生日に残した録音は一つしか存在しない。それが(よりにもよって。笑)これだ。


Where

Where

Eric Dolphy(as, bcl, fl) Mal Waldron(p) George Duvivier(b) Ron Carter(b, cello) Charlie Persip(ds)


録音日は1961年6月20日。ロン・カーターにとっては、24歳での初リーダー作。ドルフィーとはチコ・ハミルトン・クインテットにおける同僚であった(59年、公式盤は存在しない)。このセッションの前年の60年8月には、ジョージ・デュヴィヴィエとともにドルフィーのデビュー2作目「Out There」に参加しており、カーターがチェロを弾き、デュヴィヴィエがベースを弾くというアイデアは、その時に胚胎したものと思われる。カーターはベース転向前はチェロが主奏楽器だったらしいが、この不安定さはいったい何だろう。デュヴィヴィエの安定感に、ほっとする。


ドルフィーは全6曲中4曲に参加し、そのソロはどれも短い。ただし「Softly, As In A Morning Sunrise」は、他作品ではバスクラリネットで演奏されており、アルトサックスによる演奏は貴重だ。しかもその演奏は、リラックスして軽く吹いたものだろうが、この時期はドルフィーの充実期でもあったから完成度が高く、かつての私もそうだったように、ジャズ研でアルトを吹いている学生あたりには大いに示唆に富むんではなかろうか。


なお、セッション中、誰かが「ハッピー・バースデー」のメロディーでも紛れ込ませていれば面白いエピソードになっただろうが、そういうことは起こらない。ドルフィーが誕生日だったことも、メンバーが知っていたかどうかは不明だ。




ところで、先ほども書いたが、この時期のドルフィーは、60年のニューヨークデビュー以降、最初の充実期を迎えていた。この録音前後の活動を整理しておこう。

この年はアビー・リンカーンとの録音に始まり、オリヴァー・ネルソンとの「ブルースの真実」「Straight Ahead」、ブッカー・リトルとの「アウト・フロント」「キャンディド・ドルフィー」、ジョージ・ラッセルとの「Ezz-Thetics」、ジョン・コルトレーンとの「オレ!」「アフリカ・ブラス」が、6月頭までに吹き込まれている。20日の本作品を経て、ちょうど1週間後の27日には、デュヴィヴィエを除く4人が参加してマル・ウォルドロンの「The Quest」が録音される。

そして、その6日後の7月3日、この年前半の活動が結実したとでもいうべきブッカー・リトルとの双頭クインテットが結成され、2週間にわたってファイヴ・スポットに出演、最終日の16日に「エリック・ドルフィー・アット・ザ・ファイヴ・スポット Vol.1+1」「アット・ザ・ファイヴ・スポット VOL.2」「エリック・ドルフィー・メモリアル・アルバム」といった名盤群が残される(「At the Five Spot Complete Edition」としても集成されている)。

リトルとは8月にもマックス・ローチのグループで(記録上は最後の)共演後、下旬からドルフィーはヨーロッパへ向かい、多くのセッションアルバムを残している。9月下旬に帰国後はコルトレーンのグループに加わって10月初旬まで西海岸をツアーしていたようだが、リトルが10月5日に急死する。ドルフィーはその知らせをどこで聞いただろうか? さらにそれから3年もたたず、自身もあとを追いかけることになるとは、その時は思いもよらなかったに違いない。