あうとわ~ど・ばうんど

John Butcher - Nigemizu

何を今さら、という感もありますが。


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John Butcher - Nigemizu
(Uchimizu Records, 2015)
John Butcher(ts, ss)


むろん、2月半ばには入手していて、これは大変な作品と思ってはいたものの、多くの好評ブログ・ツイートを横目に見つつ、なんとなく当ブログに書くのは先延ばしにしていた。凄いものを前にすると結局は失語するほかなく、口を開いたところで「すげー」「傑作!」と言うのが関の山という気がしていたからである。じゃあ、今なら何か「うまいこと」が書けるのかと言えば、そんなことはないのだけれど、とりあえず、この音楽を聴いて考えついた馬鹿なことについて書いてみることにする。


私にとって、フリーインプロヴィゼーションを聴く、という行為は、というか、その音世界に入り込むのは、そう容易なことではない。最初の一音を聴いた瞬間にノックアウトされ、感嘆の吐息を漏らすことしかできない、ということは起こらない。フリーインプロに限った話でもない。ジャズだって多かれ少なかれ、そういった側面がある。喩えてみれば、フリーインプロヴィゼーションを聴くのは、現代詩を読むことに近いのかもしれない(モダンジャズは近代小説、現在進行形のジャズは現代小説、と一応、類比しておく)。一行目から、その表現の深奥に没入することなどできやしない。読み進めるうち、味読するうち、徐々に作品世界に入り込むのである。音楽でも同じこと。


作品世界に入り込む、ということは、日常から異界に入り込む行為である。と、乱暴だが、言ってしまおう。日常の隙間に「次元トンネル」が口を開けていて、音を耳にした瞬間に落っこちてしまえば、それはそれで楽である。が、そんなことはない。日常の明るさと、日常のモノが目の前に散乱する中、聴取体験を通じて耳が馴れるうち、脳も程よく日常的想像力から解き放たれ、左脳から右脳優位となり、実は日常の隣にあった異世界にするりと迷い込んでいるといった具合である。この、日常と異界が橋渡しされる刹那を、「薄暮」の世界、と言ってみることにする。昼と夜の中間の薄暗さ、日常と神秘の境界、現実と異界のあわい・・・


さてここでようやく、ジョン・ブッチャーである。彼のサックスの音は記憶や感情に直接作用するような不思議な響きで、徹頭徹尾論理的でありながら徹底的に非論理的であるような音の流れを提示しつつ、私を薄闇へいざなっていく。気づくと周囲は、薄暮の世界だ。そこはこの世界と異界が交差する場所。ここで私は幻視の力を持つ。音楽を聴いている間、さまざまな思いや考え、ヴィジョンが想起しては消えていく。むろんこれら一連の出来事は、音が耳を通じて電気信号に変換され脳のニューロンネットワークに作用して起こる物理的現象でしかないのだが、そんな論理と非論理の相克の中で、私はいろんなものを確かな実在感をもって感じ取っている。


そういえば、id:yoroszさんがツイッターで、雨の日にこのCDを聴くのが非常に合っている、というようなことを言っていた。それも、薄暮の世界に近いのではないか。空を雨雲が覆い灰色になった世界。幻視の力が強まる時間。聴覚だけでなく、視覚も異界を近寄せる(突然思いだしたが、少年時代、窓の外の雨を見つめながら、やがて世界が斜線で占められ、テレビの砂嵐のように世界を覆ってしまうのではないかと夢想したっけ)。


ジャケにあしらわれた画も、夏の黄昏時、家でひとり夢中で遊んでいて気づいたらだいぶん部屋の中が暗くなっていて、突然何かの気配を察してひょいと窓外を覗いてみたら、異形のモノの親子(?)が通りすがるところだった、と見えなくもない(諸星大二郎の漫画では、しばしば夕闇の中(まさしく逢魔が時)で物語が動きだす)。ところで、この影は本当は何?


訳の分からないことを書き連ねてきたが、最後に。


このアルバムのタイトルは奇しくも「逃げ水」。そこにあるはずなのに、そこにない。あるいは、そこにないはずなのに、そこにある。たしかに目の前にあった、実感できたはずなのに、すべては私の脳が垣間見た幻影。それを引き出したのは音。しかもこのCDは録音が素晴らしく良いので、ブッチャーのサックスも実に自然に私を薄暮へと連れて行く。音による幻視力も最大限に引き出された感じだ。