あうとわ~ど・ばうんど

植木等伝

植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」

植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」

を読んだ。
インタビューを基にした評伝。
生い立ちから戦後のバンドマン時代、テレビ黎明期から時代の寵児となり、やがて流行が峠を越えるあたりまでが内容の大半で、植木死去後の追悼番組などで知っている内容も多いが、やっぱり面白い。
特に面白いのがバンドマン時代で、これは4月に書いたことの繰り返しになってしまうけれど、1950年代、後に純ジャズと大衆芸能に分かれてゆく前の混淆状態の日本ジャズ界が、とても興味深い。
横浜モカンボで、時折ぐでんぐでんに酔っ払ってやって来ては凄いピアノを弾く米兵がいたので、植木が穐吉敏子に聴きに来いよと教え(!)、穐吉が来て確認したらハンプトン・ホーズだったという話。植木はモカンボのハコバンのリーダーだったわけで、ということは(おそらく)日本で最もホーズと共演した演奏家なのではないかという推測も成り立つ。また、仮に、ハンプトン・ホーズの共演者一覧を生年別に作成した場合、マイルス・デイヴィスジョン・コルトレーンらとともに、植木等の名が記されることになる事実(全員、1926年生まれ)に思い至り、少し興奮した。
本書には、植木とジョージ川口の座談も引用され、同年代(川口は27年生まれ)の2人が「ジョージ」「植木」と呼び合い、ほら話に話を咲かせる記述もある(川口の演奏は、モダンジャズ派からは評判がよくないが、植木らと同様『ジャズ芸能』的な視点で語れば腹は立たない、気がする)。
ちなみに、これは本書への記載ではないが、「そして、風が走りぬけて行った―天才ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯」によれば(10年前に立ち読みしただけなので、うろ覚えだが)、「幻のモカンボ・セッション’54」はハナ肇世話人を、植木は入口で会計係を務めた。ハナに頼まれ植木は引き受けたものの、当時新進ギタリストとして注目を集めていた高柳昌行の演奏を聴きたかったのだという。もちろん会場内には、他に宮沢昭渡辺貞夫(彼は植木の「さよならの会」で追悼演奏をしている)らもいたわけだ。
植木とマイルスとか、植木と高柳という、普通ならば絶対に結びつかないはずのない名前が、併記をあっさり可能にするこの時代は本当に興味深く、掘り下げれば面白いことがいっぱい転がっていそうに思う。